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この蔵がこの場所に建てられるまで

この蔵は、藤井利八という書籍商が営んでいた「松山堂」の書庫蔵として、大正6年(1917)に現在の淡路町で上棟されました。その後、関東大震災・太平洋戦争という二度の大災害を経ましたが、奇跡的に倒壊を免れました。その要因としては、この蔵が煉瓦造りの分厚い壁を取り入れた堅牢な建物であったことが挙げられます。

その後、長谷川公男がこの蔵を所有し、昭和58年(1983)にはこの蔵をこのまま利用した「淡路町画廊」がオープンしました。これによってこの蔵は、歴史ある建物として保存されるとともに、多くのアーティストが作品を発表する場として利用されました。

平成22年(2010)淡路町の再開発事業により解体されることになりましたが、その文化的価値や地域的資源としての重要性は高いと判断され、蔵の建材を慎重に解体・再組立を行い、平成25年(2013)御茶ノ水ソラシティとワテラスのちょうど真ん中にギャラリーとして移築されました。移築に当たり、この蔵の特徴である煉瓦組積構造は現在の建築基準法に適合しないため、残念ながら復原はできませんでしたが、一部の木材や金属部分については、当時のものをそのまま使用しています。

解体作業と組み立て

解体では、木材を中心とするすべての建築部材にナンバリングをし、組み立てる際に混乱のないようにします。建築部材の中には、当時の職人の技が垣間見えるものもあり、それらの特徴も壊さないように、慎重に解体を行いました。

この蔵は一見すると土蔵のようですが、漆喰を外してみると、その下には、黒くて光沢のある煉瓦が積まれていました。目地は「覆輪目地」と呼ばれるきれいな丸みのある凸形の丸面で、煉瓦面と同じ高さに仕上げています。また、煉瓦にはカタカナの「サ」とひらがな「さ」の2種類の刻印が見つかりました。

組み立ての際に、現行の建築基準法を満たすことが出来ないという理由から、すべての復原は出来ませんでした。そこで、小屋組を最重要部位とし、小屋組を残すため建物全体を3階建てから2階建てに位置付けを変更しました。こうすることで、小屋組の部材だけでなく、既存の木床や木階段、また1階の階段手すりにある「擬宝珠」も当時のまま再利用することが可能となりました。

明治から大正に向かっていく中で、時代の西洋化に対して、職人達は江戸で培った伝統の技術を新しい技術の中に取り入れ、様々な趣向を凝らした意匠の施行に腕を振るいました。この蔵は、大正6年(1917)に上棟されましたが、そこには、職人による木材の選定・組立技術、また内部の木材装飾への細かな配慮が感じられ、職人達による和魂洋才の心意気を随所に確認することが出来ます。